工藤芳幸先生(関西福祉科学大学保健医療学部リハビリテーション学科言語聴覚学専攻 講師)に、『話しづらさを抱えることと「今、ここ」を生きるかたち』のご寄稿を頂きました。ことばの障害を持つ方の支援者として、また、話しづらさを抱える当事者としての視点でのお話です。話しづらさを抱える方に接する機会のある色々な立場の方に読んでいただけましたら幸いです。
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【 話しづらさを抱えることと「今、ここ」を生きるかたち ~前編~ 】
他者とのコミュニケーションは、細かくみるとさまざまな能力や環境に支えられている。『ことば』ということ1つとってみても、必要な語を言語のルールに沿って組み立てること、それを受け取って理解することなど、実に複雑なことを行っている。そのいずれかが上手く機能していないと、コミュニケーションに支障を来すことがあり、構音(発音)もその1つである。一例として、「たいこ(太鼓)」の「た」が上手く言えず、「か」と言ってしまうと「かいこ」となり、全く別の語になってしまう。こうしたことが会話の中で頻繁に起こると、「太鼓」という語を使って何かを言いたかった人は、その意味や思いをスムーズに伝えることができない。聞き手も受け取ることが困難になる。ここでは詳細な説明はしないが、自分の努力では修正できず、明らかな麻痺などがない場合には機能性構音障害と呼ばれている。
私は言語聴覚士(ST)としてことばやコミュニケーションの〈障害〉がある子どもや大人を支援する立場である同時に、一部の音をあまり上手く言えない当事者でもある。子どもの頃はなかなか言っていることが伝わらず、聞き返されることや、間違いを指摘されるということが非常に多かった。私の場合、「か」行のうち、「き」の子音/k/が/t ʃ/の音に近い歪み音(「ひずみおん」と読む)として(注:「き」が「ち」に近い歪んだ音として)産生されてしまう。そのときにどう対処したのかというと、「き」や「ぎ」がついている単語を言うことを回避する術を身につけた。似たような意味の別の単語を使うなど、できるだけ「き」や「ぎ」を使わないように工夫し、小学生の頃はこれでやり過ごした。私はこのことで周囲との会話をためらうということはなかったし、その後STとして養成される過程で構音指導を受ける機会もあり、ある程度コントロールできるようにもなった。しかし、上手く通じない、発話が思うように聞きとられないということは小さな棘のように突き刺さり、私を捉えて離さない事象であることには変わりはない。
ところで、構音の〈障害〉とは何なのだろうか。そして、それが「治る」ということはどういうことなのだろうか。構音が思うようにならないことは、情報が正確に伝わりにくいということだけではなく、伝わらないともどかしさ、周囲で当たり前にできることができないという疎外感、何かが欠けたような存在として自分自身を肯定しにくくなるといった心理的問題が起こり得る。また、会話場面において相手にわかるように言い換える努力は「当たり前」のこととして、苦悩を知られることもなく過ぎていく。努力の主体は多くの場合、少数派だ。こうした1つ1つの局面で、自分が発したい言葉を飲み込み、飲み込むことに慣れ、何かしら自分が周囲から外れた存在として刻印されていくことがあるかも知れない。こう考えると、ことばやコミュニケーションの領域に関わる〈障害〉は個人の機能的な問題ではなく、関係の中で構築される。〈障害〉が立ち上がる場所、そしてその解消は個人の中に閉じていないのである。
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後編はこちらから。
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